参加の思い出編

 

このラリーの格式はJAF(日本自動車連盟)の準国内競技だった。

この時期ほとんどの競技は準国内格式で行われていた。
国内格式は日本グランプリとか数試合しかなかったと思う。

レベルはかなり高かったはずだが3日間なので参加者が少なかったのが、
この後日本山岳ラリーを止めた原因と推定している。

コースは、AUTO SPORTS誌【1975年11月号】 の記事に紹介されているが、我々は、記事に記載されているのと同じミスコースをした。
幸いにもこのミスコースはノーチェックとなり救われた。

しかし2日目の蔵王近辺でアクセルワイヤが何かに引っかかり戻らなくなるというトラブルと蔵王エコーライン入り口付近でのミスコースの2つで大量減点となり、ぎりぎりの10位となった。(これがなければ8位だったと思う)。

このラリーでは近所の方にもらった朝鮮人参エキスをお互いに飲んだおかげで2日目の徹夜もまったく眠気がでなかったという思い出がある。




唯一の失敗はスペアタイヤを1本しか持っていなかったことだ。
(万一に備え友人から1本借りていたのだが,使ってしまうわけにもいかず使用しなかった)。
タイヤはYOKOHAMAのマッド&スノーの新品でスタートしたのだが、1晩で4分山くらいになってしまい、1本のみスペアの新品に交換して2日目をスタート。
しかし左右のバランスが悪くドライビングには苦労した。
局2日間でタイヤは2分山程度になってしっまた。

チェックポイントでは車が止まる寸前に飛び出してタイムシートを受けとり、ドアは半開・ナビが着席しないうちに発進するという今考えれば若気の至りというような走行をしていた。
これも秒計時・ハイアベレージ速度指定の条件をクリヤするには仕方のなかったことだった。

石原裕次郎が「栄光への5000km」のロケで「タイヤが消しゴムのように減っていく」と語っていたことが本当だったんだと思ったラリーであった。

今となっては記憶に薄いが、参加チームの7割位はいろいろな地域のクラブチームに所属していたのだと思う。 二本松・えびす高原では各チームのサービスクルー
(サポート隊)が車両整備している中、我々のプライベートチームは眠気を押して自分たちで整備をしてから休憩に入ったのだが、このときはサービスクルーのいるチームがとても羨ましかった。


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我々は会社の同期入社仲間で、当時は会社の通勤に車を使用することが許可されていた。
このラリーの参加を目標に、平日の昼休みは昼食もそこそこにして、ランサーを使っておそらく2か月以上の期間を走行練習に費やした(もちろん交通ルールは厳守した)と思う。
 
会社の周辺道路で任意に指定速度を設定し正確な定速走行練習を繰り返した。 
さらには突然出現するチェックポイントへのタッチダウンの練習もした。

これらの練習は町中での安全運転が前提となるため(信号・速度標識など)、ナビゲーションによる走行タイム計算が非常に煩雑であったことが思い出される

1975年当時はまだこういうことが町中でできる環境であったことも幸いしていたと思う。 


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【後日談】

 日本山岳ラリーで入賞したので、意気揚々とこの直後に同様のラリーへ出場した。

このラリーの名前は忘れてしまったが、ランサーには当時流行していた電子高圧イグナイタを採用していた(プラグの発火電圧を上げてパワーが出せるといううたい文句の点火補助装置だった)。

しかし、このイグナイタの接触不良によるエンジン不調とミスコースが重なり、遅れを取り戻すべくスピードを出したところ、ウェット路面でのカーブでスリップして路肩に乗り上げ横転してしまったことがあった。

今考えると高圧イグナイタを過大評価していたのではないかと思うことがある。

ナビゲータ側に横転したのだが、ドライバーは中吊り状態になり自力ではシートベルトが外せないという体験をした。
それとナビゲータが下になっているのであるが、ドライバー側のドアを重くて開けられないという体験も同時にした。 

火災などが起きたら危険なことだったと認識したトラブルではあった。 このときはオフィシャルカーのスタッフに車両を起こしてもらい、ドライバーは無事シートベルトが外せたのであった。

それでも完走してリタイヤはしなかった。 
そして大会後・・・しょんぼりと6号線? を走って帰ってきたのだった。

今となっては懐かしい思い出である。



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