父・長谷川三郎(雅秀) 
 口演童話とボーイスカウトに生きた48年の生涯
 

川崎市の子供会やボーイスカウトの草創期、川崎のリクレーション指導の
草分けとして活躍した、父・長谷川三郎(雅秀)の記録です。

夢が生まれて
子供たちの目が輝くとき
それが私の生きがいです。
童話を心のふるさととして育った私は、
いつも子供の世界に住み、
童話一筋に生きてきました。
その道は、常に厳しく険しいものでした。
私は師と仲間に恵まれ、20年の歳月を
いつの間にか過ごしていました。

私の最良の日 昭和34年 3月29日
長谷川雅秀(三郎を改名)と童話のつどいにて

父にとって最後のキャンプファイヤーになった
川崎市幼稚園協会の研修会。 
シルエットは父 
昭和45年8月28日 河口湖にて
 「・・・厳しく険しいものでした。」と回想している事を、昭和34年に開催された「童話の集い」のプログラムを最近になって発見し知ることとなりました。 
貧乏なとび職の家に生まれ、高等小学校までの学歴しかない父が、この職業で名を残すまでの苦労を回想したものと思われます。 
教育委員会のスタッフとしては高学歴が多い中、高等小学校出身者として頑張りぬいた父に改めて敬意を表したい。

父45歳の頃
ボーイスカウトの講習会にて


クリックすると大きくなります

   略 歴

母・フミ子と同じ大正11年(1922)2月15日生まれ。 港区・赤羽小学校卒業生
昭和5年5月20日 小学校3年生八歳にして当時の東京・三田少年団・幼年隊に入団
後年、「三田健士会」という人生の仲間に恵まれる
昭和11年 母体となっていた三田学園の子供会指導員
昭和14年 三田学園子供会で童話の初口演
昭和18年には日本遊園協会の嘱託童話講師
昭和25年 ボーイスカウト東京49隊として第2回全国野営大会に参加(初代隊長)
昭和26年 川崎市連合子供会副会長
       母となる松本フミ子と結婚
昭和27年 川崎市子供会連盟副運営委員長兼指導者研究会主宰
昭和28年 川崎市に童人クラブを設立し所長
昭和29年 児童文化研究所所長
昭和30年 神奈川県知事から「紙芝居業者」の指導員を委嘱
       (どんな仕事だったのか???今でも委嘱状が残っている)
昭和31年 川崎市青少年補導連盟(現在の育成連盟)職員となる
昭和32年 ボーイスカウト川崎地区協議会 事務局長
昭和33年 ボーイスカウト神奈川連盟 事務局長
この頃(詳しいことがわからないのであります)川崎市教育委員会社会教育課
青少年教育係に奉職。 以後、教育委員会に在職し子供会、ボーイスカウトや
成人教育、リクレーション指導を主に担当。

昭和34年 「長谷川雅秀と童話の集い・童話口演500回記念」開催 (pdf 1.6MB)
昭和35年 川崎第29団設立に寄与
昭和36年 ボーイスカウト関東実修所 少年部2期 終了
昭和37年 川崎市(現・高津区)末長・溝の口地域に第39団の前身となる準備隊を設立
 団号はまだなかったので地域由来の橘という文字をとって「橘隊」とした
 この「橘隊」の呼び名は現在の第39団のネッカチーフに刺繍されている
昭和39年 ボーイスカウト日本連盟より「かっこう章」受賞
昭和40年 ボーイスカウト川崎第39団を設立 初代団委員長
昭和42年(あるいは43年か?) 初代の「川崎市立 青少年の家」の専任所長
*     日本童話協会理事
昭和44年 (財)日本リクレーション協会 リクレーション上級指導者

昭和45年 9月20日 「童話まつり」・中原市民館にて (pdf 1.1MB)

昭和45年 12月25日 誤診により48歳の生涯を閉じた。
あっという間の出来事であった。
亡くなる直前、一瞬意識が回復し「今日は何日だ? 
クリスマスじゃみんな忙しいな・・」
そんな言葉が最後であった。 仕事柄この季節は毎年多忙なのだった。
 
「友情の輪」の碑
 我が家にはとても大事な宝物がある。それは左の写真の記念碑。
父の友人たちが建立してくれた友情の碑です。

【ボーイスカウト川崎地区 スカウトクラブ会報「杖」第8号(H25年6月発行)から転載】

当時のボーイスカウト川崎地区役員を中心に「長谷川さんの功績に感謝しよう」の声が
上がり有志が献金をして、ご遺族の了解を得て昭和47年12月緑ヶ丘霊園内の墓地に
[友情の輪]の碑を建立しました。
碑には「ボーイスカウト川地区の発展に尽くされた長谷川三郎雅秀君の事績を記念し
碑を建立しご遺徳をしのびます」と記されています。

2000年に墓地を改装した際、墓石にはこれにちなみ「絆」と大きく彫り込んだ。
少年団時代(戦前)
おそらく小学校6年生くらいの時の写真であろう。 いきいきしている姿が今の私にはうらやましい。 
珍しい写真としては、右上に注目されたい。 今で言うガールスカウトらしき写真がある。
父の写真集には必ず女性がいるのであるが、これまた、今の私にはうらやましい限りではある。 

【三田健士会】
昭和5年、三田学園の三田少年団(現在のボーイスカウト)に入団し少年時代を過ごす。
この仲間(敬称略)に山本、永見、河村、花島などの親友に恵まれ、彼らは「三田健士会」を
結成し、後年華々しい社会的活躍をする。 その三田健士会は互助精神にあふれ、
家族ぐるみの長い付き合いとなっていた。その友情は生涯強い絆で結ばれ、昭和45年に
父が急逝した後も我が家を応援してくれていた。
 この友情を大切にする信条は我が家の教えとなっている。

和歌山城の隣にある
日蓮宗総本山で修行
していた時の写真。
19歳頃だと思う。
    ●東京49隊 (ボーイスカウト)

目黒のサレジオ教会が母体になってくれたと聞いているが、父が初代の隊長である。現在の東京連盟・目黒3団である。
管理人も子供のころ東京49団時代の団集会に父親と一緒に行ったことがある。

さて右の写真は東京49隊が初めて参加した第二回全国野営大会・新宿御苑でのキャンプ。
ちなみに、第三回は山形県蔵王で実施され、これ以降は日本ジャンボリーとなる。

 写真の制服は手作りで、自分たちで染め上げたとも聞いている。 当時の様子はこちらで。1950年8月開催。
この東京49隊での経験が川崎に移り住んでから爆発することになる。


第二回全国野営大会
新宿御苑
1950年8月
父のアルバムより

上の写真クリックすると
アルバムが開きます


当時の東京連盟理事
内田氏と一緒に

左が父(当時28歳)
である。




キャンプ風景
   川崎市でのボーイスカウト活動

昭和33年8月
神奈川連盟キャンポリー
茅ヶ崎海岸にて
左から沓掛氏、父、高田氏
大山氏、平川氏

昭和44年
川崎地区沖縄親善キャンプ
事前打ち合わせ(米軍立川基地)
左から父・三郎、小清水氏

昭和44年8月
川崎地区沖縄親善キャンプ
沖縄にて

昭和44年8月
川崎地区沖縄親善キャンプ
沖縄・インブビーチにて

昭和44年8月
川崎地区沖縄親善キャンプ
沖縄・インブビーチにて

(場所・時期不明)
左から父・三郎、小清水氏

昭和33年8月
神奈川連盟キャンポリー
茅ヶ崎海岸にて

旧川崎市立少年の家
(現・青少年の家)
成人学校の記念写真と思われる
前列左から5人目が父、
7人目が当時の秋山課長

アジアジャンボリーの参加賞を付けていることから昭和37(1962)年頃の写真と思われる。 二列目左から父、小清水氏、山田先生、柏倉氏、高田氏
前列は佐川氏
川崎地区草創期に活躍人々です

子供と童話の世界
童人クラブの仲間
この人々が、川崎市の
子供会の基盤を作った
といっても過言ではない。
下:左より父、米倉さん
上:八馬さん、辻さん

キャンプファイヤをやらせれば
右に出るものはなし。 
子供の心をつかむ技は
天下一品と称された。
改装前の「旧・少年の家」にて



子供を喜ばせるためなら
プロの手品師にもなった。
 趣味の域を脱するのである
から、我が家の家計は
苦しかったと母が懐述
していたことを思い出す。
でも、そんな母があってこそ
の父だったのだろう。 
高価な道具が遺品として
残っていたが、使い方が
わからず数年前に処分した。
お話のマジシャンとも言われた父は、仕事としてもボランティアとしても子供会などのイベントに引っ張りだこだった。

だから、我が家には日曜日に父親がいて遊びに連れて行ってくれるという機会はとても少なかった。

父の「お話童話」が楽しみで
集まってくる子供たち。 
昭和35年頃だろうか
川崎市立青少年の家が改築され、新館ができると同時に初代の所長になった。 背後に見える「川崎市立青少年の家」のロゴは父がこのためにレタリングを通信教育でならい完成させたものを製品化・設置したもの。 多分その記念撮影なのだろう。
   ●口演童話の極意

1970年(昭和45年)
9月20日に当時の中原市民館で「童話まつり」が開催された。

この日、父の実妹のご主人の法事があったが、主役の一人である父は会場で待っている子供の期待を裏切れないとのことで法事の出席を当時17才の私に託した。

これが父の最後で最大のイベントになった。
享年48才。 父の晴れ舞台になってよかったと今でも思う。

正式には「童話口童」と言うらしい。 語り継がれる童話的な感じである。

私が子供の頃、決して家では聞けない父の童話と手品を他の子供たちとわくわくして待ったものだ。

そして、巧みなジェスチャーが子供たちを創造の世界に連れてゆく・・

ファミコン、PS2、コンピュータなどのゲームが当たり前の時代になってしまったが、純粋な気持ちで父の「童話口童」を聞きたいと思う。

今の子供たちに、こういう方法で創造・想像・夢を与えられる人々はいるのだろうか?

さて・・・
右の写真で共通するところは、手の角度、指先の形、視線、表情の豊富なこと。

ただ話すだけでは子供の心はつかめない。

残念ながら、父も有泉先生も伊東先生もすでに他界した。

天国で童話の研究を3人でやっているのかなぁ・・・


あれれっ!! 魔法の玉が
お空に舞い上がっちゃったよー

「童話口童」ではこの
ジェスチャーが子供達を
夢の世界に引き入れるのだ

・・・山の上のほうからね、
ドンブラコ、ドンブラコと
こんな感じで流れてきたの・・・

・・・そしたらね、こんな大きさの
可愛いキツネさんが眠っててね
起こしちゃ可哀想なので・・・

両指先と手の感じ、顔の表情で口演童話は子供の心をつかむ。

父の少年団時代の隊長で
日本の童話界では重鎮の
一人と呼ばれた有泉 譲先生。
父の人生の大恩人である。

童話の世界では三笠宮殿下
や平成天皇(当時皇太子殿下)
とお会いした経験を持っていた。

三田健士会の恩師


有泉先生並ぶ日本童話界の
巨匠とされた伊東挙位先生。
児童文学の大家でもあり、
著書も多い。
PCで検索するとすぐでてくる。
童謡・王様はロバの耳の
作詞者でもある

父の童話口童の大師匠で、
家族ぐるみのお付き合いを
させていただいていた。
新聞取材

「長谷川雅秀と童話の集い」の新聞取材

読売新聞(pdf 1.6MB)


川崎新聞(pdf1.1MB)

「童話まつり」新聞取材
神奈川新聞
(pdf  1.1MB

この表情・ジェスチャーが
子供の心をとらえていたのだ。

閉会式
左から有泉先生、伊東先生、
古尾谷先生、辻先生、お隣は・・
すみませんわかりません。

古尾谷先生の司会による
閉会式


(C) 2003 Cham house. All rights reserved.